縮景園の碑

夏になると縮景園に行く。
江戸時代から続く広島の名勝である。
残念ながら私の心は日本庭園の美を理解しない。
強烈な日差しを避けるため、木陰の多い道を選び、足早に庭の奥へと向かう。

縮景園の北側。この道を進んだところに慰霊碑がある。

園内の大きな池を超えた先に、小さな碑が建てられている。
1987年、この場所で64体の遺骨が発掘された。
被爆者たちの遺骨であった。
戦時中、ここ縮景園は地域の人の避難所の一つだったらしい。
1945年のあの日、水を求めて縮景園にたどり着き、ここで命尽きた人々、それが先の64名である。
この碑は、彼らの墓標であり、ここに原爆による死者がいたという事実を示す遺物である。

原爆が投下された場所、大手町の島病院から縮景園までは、それなりに距離がある。
直線距離にすれば1㎞と少し。
その程度に離れた場所にある縮景園付近にいた人々を殺傷する威力が、原爆にあったのである。

人間は、思いのほか頑丈にできている。
もちろん、心臓や脳など重要な臓器を狙って攻撃が加えられれば、人はあっけなく死ぬ。しかし、そうでない限り、人はそう簡単には死なない。
ここを見ている人も、これまでの人生の中で大なり小なりけがややけどを負ってきたはずである。しかし、それでも死には至らない。むろんそれは適切な医療処置あってのことでもあるが。ともあれ、人間を死なせるには、生半可な衝撃や熱では全く足りないのである。

原爆の爆風と熱波は、その人間を死傷せしめたのである。それも、1㎞以上離れた場所から。
その1㎞の間には、当然、当時も市街地があり、いくつものビルがあった。それによって衝撃も熱も大いに減衰したであろうにも関わらず。

原爆でどれくらいの死者が出たかは、調べればわかる。原爆がどれくらいのエネルギーを持っているかも、調べればすぐにわかる。平和資料館に行けば、当時の惨状を伝える写真が展示されている。
しかし、それらはどれも、単なるデータや記録として見ると、原爆から50年経った私たちにとって、どこか遠い、過去の、実感の湧かない、自分たちとは無関係なものとなる。

縮景園の碑は、木洩れ日の中、密やかに、そこにあり続けている。
それはここに死者がいたこと、そしてこの付近にいた人間をも殺せるほどの衝撃と熱があったことを、静かに私たちに教えてくれる。
――この下に眠る人々の苦しみはいかほどのものだったであろうか。

そのようなことに思いを巡らせるとき、1945年8月6日8時15分、広島で起こったことを、初めて、自分の生と連続したものとして捉えることができる、そのような気がするのである。
その年末までに約14万人が死んだということも、TNT火薬で16キロトン相当の威力だったということも、それがどのようなことを意味するかということに、初めて注意が向く。
そして平和資料館の白黒の写真も、今眼前に広がっているものと同じように色鮮やかな風景として、痛ましく想起されるのである。

私は、このような想像力を持つことは、私たちが人間であるために必要なことであると確信している。
この想像力は失ってはならない。私が縮景園に行くのは、そのように思うからである。