ゲームと魔力と「いき」とギャルについての短い考察

 公式がユーザーの妄想にすり寄るのを気分悪く思うというツイートが散見された。メギドの話である。原作において全くそういう設定がないキャラを一部ユーザーが勝手に母と称して盛り上がっている中、公式が「母と姉」ピックアップガチャを予告してきたのである。ピックアップされた二人のキャラはどちらも母でも姉でもない。おっさんと美青年である。不可解である。先述のユーザーの勝手な妄想という背景抜きには。ユーザーにすり寄りましたと公式が言うはずもないが、そう思われても仕方ないだろう。
 問題なのはなぜそれがユーザーにとって気分が悪いことなのかということである。筆者はその原因は「魔力」の喪失にあると考える。それまでユーザーを虜にしていた魔力が、公式のすり寄りという行動によって減退するのである。

 ここで筆者が言う「魔力」とは、近代的理性によって説明することのできない、魔法のような、人を惹きつける力である。ドイツ語でいうところのZauberである。英語でいうならばcharmになるだろうか。
 例えば我々はゲームをする。ゲームする暇があるなら勉強なり労働なりをした方がいい、そのことを承知しているにもかかわらずである。近代資本主義における理性は「時は金なり」という精神のもと、勤勉を命じる。我々がゲームに没頭するのはその命令に反している。つまり、ゲームをプレイするのは非合理的な行為である。ゆえに、我々をゲームに駆り立てる何かも、合理的でない何かである。その何かを筆者は「魔力」と呼んでいる。その魔力が切れた時、人はコントローラーを置いたり、GEOやブックオフに向かったり、アプリをアンインストールしたりするのである。

 魔力を構成するものは何か、どうすれば人に魔力をかけ続けられるか。それをを理解するにあたって大いに参考になるのが九鬼周造の『「いき」の構造』における考察である。
 古来、といってもそこまで古来ではないだろうが、日本人は古くから「いき」という美意識を重視する。「いき」である振る舞いや生き様に心を惹かれる。そのような人を「カッコいい」と思う。我々はそういう生き物である。九鬼はこの「いき」を「媚態」「意気地」「諦め」の三要素によって説明する。
 「媚態」というのは、九鬼の言葉で言えば「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度」である。要するには異性に対して媚びながらも一定の距離を保つ、そういう態度である。「媚びている」ことと「一定の距離を保つ」ことが両立していることが重要で、どちらかが欠けると「いき」ではなくなる。例えばお高く上品にまとまりすぎててはいけない。媚びていないから、みんなが避けちゃうから、先の九鬼の定義の中の「可能的関係」が築けないからである。同様に、距離が近すぎてもいけない。九鬼は「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する」と言う。つまり、お父さんやお母さんに艶がないのは、お父さんとお母さんが一緒になっちゃったからである。何で自分の父母は生殖できたんだろうという疑問は少なからぬ人が持ったことがあるのではなかろうかと思うが、それは「媚態」が失われた後の二人しか見たことがないからである。お父さんとお母さんが恋していた頃、すなわち二人が婚姻関係でなく、その前段階の「可能的関係」で結ばれていた頃は、きっと、輝いていたのである。たぶん。
 「意気地」というのは、異性に対する反骨心である。一定の距離を保つことは「媚態」の要件でもあったが、「意気地」はより積極的に異性に反発する態度である。「若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい」とケンカを売る助六のような態度である。要するに、媚びてはいても簡単には靡かねえぞという姿勢である。ちょっとかわいい女の子や顔の良い男に簡単にホイホイされる奴は意気地なし、あるいは野暮である。「他の奴は自分のルックスで簡単にホイホイできたのにこいつだけは違う、おもしれえ」と思わせてこそ、恋が始まるのである。
 そして「諦め」である。曰く、「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心」である。つまり、「俺はどうせモテねぇから」という諦念である。どうせモテねぇからとか言いながら異性をチラチラ見ているようではただの無様な非モテ君になってしまう。それは諦めが足りないのである。何度も「俺のことを好きだと思っていたのに……」ということを経験してようやくたどり着く煩悩からの解脱、それが「諦め」である。
 以上、一定の距離を保ちつつ媚びる「媚態」、簡単には靡かねぇぞという「意気地」、どうせ俺はという「諦め」から成るのが「いき」である。一つでも欠ければ、それは「いき」ではなくなる。「媚態」を失えば大阪のオバチャンや休日のお父さんになるし、「意気地」を失えば美人に釣られて数百万の絵をホイホイ買っちゃうスケベになるし、「諦め」を失えば教室の隅から女の子をチラチラ見ていた俺みたいな奴になる。それらは野暮だったり、マヌケだったり、ダサかったりする存在である。どれもモテからは程遠い、残念な存在である。時には、傍から見ていてどこか気分の悪さを感じる、そのくらいの醜さになるかもしれない。

 ゲームから話題が逸れるが、ギャルの話がしたいので話したい。筆者は、九鬼のいう「いき」を現代で最も体現している存在はギャルであると考える。現代といっても、ここ最近の白ギャルのような賢しいのは「意気地」という点で今一つ「いき」ではないので、ここでは1990年代後半あたりの、おっさんが想像するコテコテのギャルとしてのガングロ茶髪、あるいは2000年代後半に一世を風靡した小悪魔ageha系のギャルを想像してほしい。彼女らは競って肌を大きく露出し、それでいて盛りに盛ったメイクとヘアーで男たちの接近を容易ならざるものにする。すなわち彼女たちのあり方には「媚態」と「意気地」がはっきりと見られるのである。「諦め」についても、少なくとも男たちへの執着は感じられない。ギャルたちのこうした媚びているようで全く媚びていない、自由で今を楽しむ生き様に我々は惹きつけられるのである。九鬼も平成の世のコギャルたちを見ることができたなら歓喜の涙を流していただろうと思う。

 しかしながら、ギャルたちがそれまでの黒髪ロングにタイトミニというあまりにも媚びたボディコン女に対するアンチテーゼとして生まれ、隆盛を誇ってなお、コンサバは死滅しなかった。いや、今や形勢は逆転し、コンサバがギャルを飲み込み、地上を支配するに至っている。結局生き残ったのは、媚び媚びのスタイルだった。我々は、おそらく九鬼が想像する以上に、即物的で俗物的であった。今や結婚相手はマッチングアプリで探し、SNSという公然の場でパパ活という名の売春が行われ、女騎士は2コマで即落ちする時代である。繊細で微妙で壊れやすい関係よりも、インスタントでファストでイージーな関係に飛びついていく、それが我々の性質なのかもしれない。

 とはいえ、ギャルはまだ死滅していない。小悪魔agehaも廃刊したり復刊したりを繰り返しながらなおしぶとく生き続けている。わかりやすい媚びに人が群がる一方で、「いき」のような媚びなさの美もまた失われてはいないのである。
 ゲームの話からだいぶ遠ざかってしまった。ここまでの話をまとめるなら、ゲームにはギャル的であってほしいということだ。ユーザーに媚びを売ること、それは今の世において求められるかもしれない。ギャルも歳を重ねるごとに親から「そろそろちゃんとした格好をしなさい」と言われるかもしれない。しかし、媚びれば、その分だけ輝きを失う。「媚態」の緊張感、「意気地」の反骨心、「諦め」の執着のなさを失う。無論それは程度の問題であるだろうが、程度が過ぎれば「いき」でない、野暮でダサく、気分の悪い態度になるだろう。その時、それまでユーザーを虜にしていた魔力が切れ、「醒める」という現象が生じるのだろうと思う。

 

(本記事の作成にあたっては、青空文庫の『「いき」の構造』(

https://www.aozora.gr.jp/cards/000065/files/393_1765.html

)を参考にした。九鬼の言葉も、全てこのサイトからの引用である)